南蛮貿易と鉄砲を語る

前回1543年に南蛮人倭寇から鉄砲が伝わった話をした。これにより、南蛮貿易が始まり、主にマカオと九州諸港での貿易が行われた。

ちなみに、1543年に漂着してきたのはポルトガル人である。スペインとの貿易が始まるのは、1584年。平戸への来航をきっかけに、貿易が始まったのだ。

 

南蛮貿易という文字だけを見ると、いかにもヨーロッパとの交易に見える?かもしれないが、実際は中継貿易がほとんどであり、もっとも盛んだったのは日中間で、生糸と銀がやりとりされていたようだ。

主な貿易品を挙げておく。

日本→中国 銀、銅、刀剣、海産物、工芸品、硫黄、漆器

中国→日本 生糸、硝石、絹織物、鉄、薬品、木綿、鉛、毛織物

日本→マニラ 銀、小麦、刀剣、海産物、工芸品、硫黄、漆器

マニラ→日本 生糸、金、皮革、香料

中国→ゴア 生糸、金

ゴア→中国 銀、油

 

ちなみに、ゴア(インド)はポルトガルリスボンと、マニラ(フィリピン)は中南米、スペインとも貿易を行っており、様々な物資が行きかっていたことが分かる。

この時期、日本では銀が大量にとれており、また神谷寿禎による朝鮮からの灰吹法の伝来(銀の精錬技術の向上)などもあり、一時は世界屈指の銀生産量(三分の一)であったが、江戸中期ごろから枯渇がみられてくる。

 

また国内の主な貿易港は以下の通り。

肥前平戸(松浦氏)、肥前長崎(大村氏)、豊後府内(大友氏)

鹿児島(島津氏)、横瀬浦(大村氏)

 

 

次に鉄砲について語ろうと思う。

このころ伝わった鉄砲は前述のとおり、火縄銃である。火薬に硝石(これは日本では採れず輸入に頼っていた)、木炭、硫黄を混合して用いており、射程距離は約100M、一分間に最大四発しか撃てないうえ、雨に弱く、装填に時間がかかる代物ではあった。

よって、騎馬での疾駆で突破可能であったことから、堀や土塁、柵を利用した、城を築城しての戦いが中心となっていく。つまり、土木戦争である。築城技術や、職人・商人の掌握、集中動員が可能かが重視されていく。

ちなみに、種子島から全国の諸大名へと広がっていった火縄銃は、国内生産も盛んにおこなわれ、堺(和泉)、雑賀(同、本願寺門徒)、根来(紀伊)、国友(近江)が主な産地となった。

 

今回はここまで、次回はキリスト教の伝来の予定。