織田信長

やっと戦国大名にたどり着いた…。本日語るのは織田信長についてである。

自称、第六天魔王。この第六天魔王という称号は、別に第一天魔王とかがいるわけではないので、注意が必要だ。仏教に詳しくないので、詳細は割愛するが、仏敵のことを指し示す仏教用語である。別に信長が厨二病だったわけでは。。。おそらくないし、自分を第七天魔王などと自称するのもお勧めしない。

ただ、彼の残虐性は戦国時代でもまあまあ有名である。まあまあと言ったのは、戦国武将がたいてい残虐だからである。さすが、殺した人の首を腰にぶらさげて戦場で戦っていた人種である。ちなみに残虐エピソードでは細川忠興が一番好みである。めちゃくちゃヤンデレエピソードが残っている。その上、その愛刀の名は歌仙兼定。手討ちにした家臣が三十六人になった時にその記念に付けられた名前らしい。

 

とりあえず、織田信長の話に戻ろう。彼の父、信秀は尾張守護代織田氏の支族であり、戦国大名となったあとは、今川・斎藤氏と争いを繰り広げていた。両氏とも結構でかいので、織田は強豪に挟まれた弱小大名だった。ただ、その領土は肥沃な濃尾平野。京都にもほど近く、東海・東山両道から畿内に通じる交通路があり、商工業も発達していた。

そんな中織田信長が登場するわけです。まず、1548年に斎藤道三の娘、濃姫帰蝶)との政略結婚。美濃のマムシの娘だけあって、すでにバツ1だったとか。嫁入り前に斎藤道三が信長がうつけだったら初夜の床で刺してこいと短刀を渡したところ、これで刺すのは父上かもしれません、と答えたというエピソードはほんとか知らんが、色々な歴史小説で登場している。

とりあえず、斎藤氏と手を結んだ織田信長は、1560年攻めてきた今川義元をご存じ桶狭間で休憩中に奇襲攻撃、今川義元の首を取ってしまった。今川家は足利氏支流で、今川了俊など有能な鎌倉幕府官僚を多く輩出してきた守護大名出身という名門中の名門であり、まさか田舎の弱小大名に討ち取られるとは…ということで、ここではじめて織田信長に注目が集まった。ちなみに、今川義元が討ち取られたというだけで、今川家自体は江戸時代まで高家として、儀礼典礼を司っていた。

2年後にはこれから一生同盟を結び続けることになる三河の松平元康(後の徳川家康)と同盟を結ぶ。これは戦国時代非常に珍しいことであり、家康が正室築山殿や最も優秀であった長男を殺してまで同盟を守り続けたのは正直気持ち悪い。

64年には妹お市を近江の浅井長政と政略結婚させ、一気に京都へと近づいた。

1567年、義父の斎藤道三が嫡男義龍(斎藤道三が元の主人であった土岐頼芸から略奪した愛妾、深芳野のおそらく父親が頼芸である子)に殺されると、美濃を攻め、斎藤氏の主城、稲葉山城を攻略。岐阜城と改名した。

そしてこのころから「天下布武」印を使い始め、おそらく戦国大名で最も最初に全国統一を視野に入れた人物であるだろう。

1568年、三好三人衆や松永久通に13代将軍の兄義輝をはじめとする家族を暗殺され、再び京に入り、将軍になろうとしていた足利義昭の呼びかけに応じて、彼を奉じて入京し、足利義昭を第15代将軍に据えた。この入京は将軍の地位回復と天皇及び皇室領の保護を名目にしていた。また、この時自治都市堺に矢銭二万貫を要求し、翌年堺が要求をのんだことで、堺は自治都市としての終わりを迎えた。

しかし1570年、織田信長を地方の一大名として見下しがちであった足利義昭と、足利義昭を足台に全国統一をもくろむ織田信長の不和が拡大していく中、信長は越前の朝倉義景を攻めている最中に、朝倉と付き合いの深かった義理の弟、浅井長政に裏切られる。

朝倉・浅井連合軍と姉川で戦い、勝利するが二氏を滅ぼすには至らず。またこの年、本願寺の11世法主顕如本願寺門徒に対信長蜂起を命じ、石山戦争が開始した。

 

信長は仏教勢力を毛嫌いしていた。なぜなら、この時代、最も恐ろしいものは仏教勢力であったからだ。当時、農民ですら完全武装していた戦乱の世。幅広い支持を受けていた一向宗は商工業が盛んであった寺内町や鉄砲の産地、雑賀や根来を押さえ、さらに各地に熱心な信徒を大勢持っていた。彼らの武器は宗教。「進めば極楽、退けば無間地獄」を合言葉に、たとえ劣勢でも、兵糧攻めを受けようとも、最後の一兵となろうとも死に物狂いで向かってくる。一方比叡山延暦寺も、屈強な僧兵を大勢抱え込み、朝廷への太いパイプを生かし、堂々と織田信長に反旗を翻していた。

 

1571年、延暦寺焼き討ち。比叡山にいた人間は、僧侶、女子供関係なく皆殺しにされ、あまりの惨劇に明智光秀がためらいを覚えたほどらしい。一方、豊臣秀吉織田信長の覚えがよくなることを期待して進んで惨殺したとか。とりあえず、これにより比叡山延暦寺門前町、坂本は衰退した。

 

1573年、このころになると足利義昭は堂々と織田信長を倒すよう各地の戦国大名に手紙を送り付けていたが、とうとう織田信長によって追放され、これにより室町幕府は滅亡する。ただ、生存はしていたため、秀吉の時代には大名の扱いを受けていた。

この年に、朝倉義景浅井長政を攻め滅ぼし、浅井長政に嫁いでいた妹、お市と三人の娘(長女はのちの豊臣秀吉の側室、淀殿。二女は京極高次正室、初。三女は徳川秀忠正室、江。)は織田信長に引き取られた。ちなみに、男子は殺されたらしい。

このとき、朝倉義景浅井長政の髑髏で乾杯したという逸話があるが、信ぴょう性は定かではない。

1574年には伊勢長島の一向一揆(美濃斎藤氏の遺臣と結んでいた)を平定。

1575年には、長篠の戦いがあり、家康との連合軍で甲斐の名門武田勝頼を破った。(滅亡は1582年。)

この時、武田の騎馬隊を破るために、信長は鉄砲を導入したようだが、当時の技術的に三段撃ちは難しかったようである。

同年、越前の一向一揆(朝倉氏の滅亡後、越前一国を支配していた)も平定。

 

そして、1576年、琵琶湖のほとりに安土城を築城した。これは最初の本格的天守閣であり、5層7重の大天守閣。標高199メートルの安土山に作られ、付近を見渡すのは容易であっただろう。最上階には金の瓦に金の柱が施され、内部の障壁画は狩野派が手掛けるなど、豪華絢爛な城であったようだ。本能寺の変後の焼失が残念でならない。

この城を作るに際し、信長は近江国内の職人らの棟別銭などの諸税を免除して、国役として作事に従事させた。

 

1577年には秀吉を中国の毛利氏征討に差し向け、1580年には柴田勝家が加賀の一向一揆を制圧。この年、勅命により、顕如と和睦し、本願寺は石山から退去するなど事実上信長の勝利で10年間にもわたった石山戦争が終結

そして1582年。天目山の戦いで、武田勝頼を滅ぼした織田信長であったが、京都の本能寺に滞在中、明智光秀の謀反を受け、自害。本能寺の変である。

長子信忠も二条城で自刃し、ここで織田家の最盛期は終わりを遂げたのだった。

 

ちなみに、織田信長徳川家康と義昭を結節点とした反信長勢力(浅井、朝倉、毛利、武田そして石山本願寺)の一連の争いは元亀・天正の争乱という。

 特に石山本願寺一揆では、伊勢長島、近江、越前、紀伊・雑賀(石山籠城軍の中心となった鉄砲隊)があげられる。

 

最後に織田政権について。

・強力な家臣団の編成

豊かな生産力を背景に、上層名主たちを武士として家臣に組み込んだ

畿内近国の平定

畿内という先進地域を支配下においたことで、商品流通路・貿易・手工業生産などの掌握。幕府に代わる支配体制を構築。寺院などの伝統的秩序の破壊。

・指出検地

貫高基準で軍役などを負担させる。大名・国人を信長から知行を受け、本領安堵された給人とした。

・楽市令(美濃加納、安土山下町)

職人、商人の都市集住を促す。(旧勢力、農村から切り離し、信長のために働く存在へ。)

重要都市(京都、堺、大津、草津)の支配

鉱山直轄(生野銀山、中国地方の鉄)

・仏教弾圧(一向一揆平定、延暦寺焼き討ち)

キリスト教保護(フロイスに布教許可)