ベルリン1888の考察ー二つの謎ー

読む機会があったので、ベルリン1888という、森鴎外作の舞姫について考察している研究論文(前田愛氏著)について述べたいと思う。

 

空間論および都市論の立ち位置から、舞姫ことエリスの存在を論じているのだが、文中にエリスが「豊太郎を迷宮に導きいれる案内者」であり、「その中心に秘められた謎の女性」でもあると書かれている。

これは一見相反するもののように思われるが、実際ここには二つの謎が表現されている。以下二つの対比構造について見ていきたい。

 

1.エリスのまなざし⇔「クロステル巷の古寺の門」

・向こう側にひろがる未知の世界からの促し⇔生きられた世界をかぎる標識

・エリスのまなざしの誘い⇔かたく閉ざされた教会の扉

・かくされた中心へ人間を魅きよせずにはおかない⇔空間を錯綜させることで侵入をこばむ(迷路特有の両義的な構造)

 

2.エリスのまなざしが問いかける謎⇔豊太郎が入り込んでいく迷宮に用意されている謎

…エリスのまなざし:豊太郎の心をその奥底から揺り動かす力を持つ

心の暗がり、闇の深さを一層際立たせる

対象化する視線(豊太郎はウンテル・デン・リンデンのバロック空間に向けてその遠近法的な構図を対象化する視線を投げかけている)

(対象化…自分の内面を外部の対象として認識しなおす行為)

 

…迷宮の謎:エリスに導かれて辿る、エリスの部屋にたどり着くまでの過程で暗示

無意識の深みに下降する(自分自身の内側に還っていく)工程を空間の次元に変換した一種のイニシエーション

豊太郎の感じたいっときの恍惚感

夢見るまなざし

 

 

結論

エリスのまなざしによって、豊太郎は自身がそれまで関知していなかった内面を対象化でき、そこにかくされていた中心にあったのはエリス(との生活)ということかなと思いました。

 

 

豊臣秀吉

豊臣秀吉はもともと尾張地侍層の出であったが、信長に仕え、最終的には関白にまで上り詰めた太閤である。名を木下藤吉郎から、織田の重臣丹羽と柴田の字をもらい羽柴秀吉と改め、最後に朝廷から名字を賜り豊臣秀吉となった。

ここでは面倒なので、まとめて豊臣秀吉と呼ぶ。

彼自身の功績は織田の家臣だった時代から様々あり、山の木々の本数を数えた話から一夜に城を作った話、信長の草履を懐で温めただとか女遊びが酷すぎて信長に叱られただの、様々な逸話があるものの、正直豊臣秀吉が好きではないので、必要最低限の本能寺の変後のみを語ることにする。

 

1582年、本能寺の変を中国攻めの最中に聞いた豊臣秀吉は、すぐさま清水宗治切腹を条件に毛利輝元と和睦、中国大返しを行い、京都に軍を引き返した。

ちなみに、この中国攻め、各地で兵糧攻めやら水攻めやらエグい戦法を使って、兵の浪費を防いでるところも結構見ごたえがある。

そして山崎の合戦で明智光秀を破り、織田の家臣の中で急速に力をつけた。織田の重臣たちは遠隔地で合戦中だったり、軍を準備できる状況になく、すぐに明智光秀を破り、様々に工作を始めた、”成り上がり者”の秀吉は重臣たちからすると憎むべき存在であっただろう。ちなみに、史実では明智光秀は戦場を逃れた後に落ち武者狩りの農民にやられたとされているが、大河ドラマ麒麟が来る」では、逃げ延びてその後徳川家康の顧問「南光坊天海」となった説が採用されていたようだ。

 

その後、織田家の後継者を決める清州会議において、評判の悪い次男信雄を差し置いて織田信長の三男信孝が推されるものの、そこに登場したのが長男信忠の子、三法師を抱いた豊臣秀吉。三法師は当時わずか三歳だった。それを上手く後継者に仕立て上げ、成人までの後見に信孝を置くことで、他の重臣を妥協させた豊臣秀吉はここで織田の実権を掌握した。ちなみに、このやり方は信長に最も重宝されていた重臣柴田勝家織田信長の実の妹、お市の方には嫌われ、この二人はのちに政略結婚をする。

 

この年に秀吉は太閤検地(当時まだ太閤ではなかったが)を始めている。

これは天正の石直しとも言われ、戦国時代に始まった貫高制(銭換算)から石高制(コメの生産量)で、財産や面積を示すようになった点で、世界的にも珍しい時代の逆行である。特徴としては直接調査により、正確な面積、収穫量、耕作者の確定が行われ、また検地に伴い度量衡が統一されている。

度…1間:6尺3寸、1間四方:1歩、30歩:1畝、10畝:1段:300歩(それ以前は1段:360歩) 10段:1町

量…1石:10斗、 1斗:10升、1升:10合、1合:10勺

(米1石が約150㎏。成年男性が一年で食べる量)

京枡(1升:約1.8L)への統一

衡…1貫:1000匁

 

石盛…段あたりの標準生産高を指す。田畑、屋敷地の面積や等級をすべて石高で表示。

上田:1石5斗/段、中田:1石3斗/段、下田:1石1斗/段、下々田:9斗/段

 上畑・屋敷地:1石2斗

石高…面積×石盛で表示された、公定収穫高

年貢…石高×年貢率(二公一民とされるが実際にできたかは不明)

年貢は村ごとに米で支払われた。(米納、村請制)

検地帳…土地ごとに、石高と耕作者(名請人と呼ばれる)を記載

これにより、一地一作人の原則が提示され、作合(中間搾取)や名主の加持子が否定

され、有力農民の武士化、領主化が困難になった。

また、名請人は土地の耕作権を保障される一方移動が禁止され、土地に縛られた。

また、それまでによく見られた重層的な土地支配や荘園制が否定され、貴族などが貧困に陥るきっかけにもなった。

もちろん、反対運動なども起きたが、村を壊滅させることも厭わない秀吉側の強気な政策であったため、全国でしっかり施行された。

 

この太閤検地により、全国の土地を石高で把握できたため、大名は領知する石高にみあった軍役、税、地位で奉仕することがもとめられるようになった。

 

 

1583年には賤ヶ岳の戦い柴田勝家織田信孝を破り、柴田勝家に再嫁していたお市の方も自害する。お市の方柴田勝家豊臣秀吉の双方に想いを寄せられていたという話もあり、よほど豊臣秀吉が嫌いだったのだなあと。ちなみに、お市の方浅井長政との間にできた三姉妹はこの時も城を脱出して生き延びている。

確実に権力を掌握してきた秀吉は大阪城の築城を開始した。

 

そして、1584年には小牧・長久手の戦いで、徳川家康織田信雄らと戦うものの、勝つことができず、結局和睦を結ぶ。豊臣秀吉は武力で天下統一を目指したが、家康に勝てなかったことで、その願いは潰える。

 

1585年、根来・雑賀一揆を平定した秀吉は正親町天皇から関白に任命され、伝統的権威を利用しながらも全国統一への大いなる一歩を踏み出す。長宗我部元親を破り、四国を平定したのもこのころだ。元親は降伏し、土佐一国を安堵される。

このころ全国に「惣無事令」を出す。全国の大名に停戦を命じ、領土拡大を否定。また、天皇から全国の支配権を与えられた豊臣秀吉に領国の安定を任せることを強制した。

1586年には後陽成天皇から太政大臣に任ぜられ、この時豊臣の姓を賜る。

これにより、上杉景勝徳川家康など全国の名だたる武将が上洛し、臣礼を取った。

1587年には惣無事令に違反した島津義久を破り、九州平定。義久は降伏し、薩摩一国を安堵された。この年には、伴天連追放令も出され、また秀吉は本拠地を大阪城から聚楽第に移している。

 

1588年には、自分の館、聚楽第後陽成天皇行幸させ、諸大名に臣礼をとらせることで、自身への忠誠を誓わせている。この年、刀狩令を発行。

 

刀狩は検地に反対していた地侍、領主層の一揆を防止し、農民を農業に専念させるために行われた。それまで武器を大量に所有し、国人や大名らの軍事能力としてもカウントされていた惣村の農民たちから建前上武器を取り上げ(完全に取り上げたわけではない。農民らも獣相手に殺傷能力の高い武器を持つ必要があったため。)、取り上げた武器を京都方広寺の大仏建立に充てるという言い訳をつけている。これにより、中世まで時に武装して戦っていた農民は農耕に専念することになり、兵農分離が進んだ。

 

1590年には小田原攻めで、兵糧攻めにより、北条氏(四代目、氏政)を滅ぼしている。この時「小田原評定」という言葉が生まれている。同義語は「会議が踊る」であるが、北条家家臣が様々な案を出し合いながら結局結論を出せなかったことを指している。

一方豊臣秀吉方は彼のワンマン政治だった。

この時、東北の覇者”独眼竜”伊達政宗が服属し、奥州平定。全国統一が果たされた。

1591年に、全国の大名に検地帳(御前帳と呼ばれ、天皇への献上を名目とした)と国絵図の提出を命じ、全国の石高制による検地が開始した。

 

 

豊臣政権の特徴

武家の統合

服属する大名の妻子を人質にとった。また国人を大名から知行地を与えられた給人、百姓を検地により居住地に帰属させ移動を禁じさせることで、武家を統合した。

・経済基盤

直轄領である蔵入地は約220万石。中間搾取の作合が否定され、年貢がすべて領主に集中する仕組みになっていた。

ー直轄鉱山

佐渡相川(金)、岩見大森(銀)、但馬生野(銀)など+全国の金山、銀山からの運上金

ー直轄都市

京都、大阪、堺(千利休や小西隆佐ー小西行長の父ら豪商)、伏見、長崎

ー諸役の公収(段銭など公家・寺社・武士・商人らの収益を納めさせる)

全国の山、野、海、川は豊臣政権に属するという思想が見られる。

 

・貨幣鋳造

贈答用の天正大判を京都の金工、後藤徳乗に作らせる。

・交通制度

関所の撤廃と一里塚の設置

豊臣秀吉のワンマン政治

これにより、彼の死の直前に急遽、五奉行五大老が設置される。

五奉行(側近)

浅野長政(検地)・増田長盛(検地)・石田三成(内政)・前田玄以京都市政)・長束正家(財政)

五大老(有力大名)

徳川家康前田利家毛利輝元宇喜多秀家上杉景勝小早川隆景(彼の死後五大老と呼ばれる)

織田信長

やっと戦国大名にたどり着いた…。本日語るのは織田信長についてである。

自称、第六天魔王。この第六天魔王という称号は、別に第一天魔王とかがいるわけではないので、注意が必要だ。仏教に詳しくないので、詳細は割愛するが、仏敵のことを指し示す仏教用語である。別に信長が厨二病だったわけでは。。。おそらくないし、自分を第七天魔王などと自称するのもお勧めしない。

ただ、彼の残虐性は戦国時代でもまあまあ有名である。まあまあと言ったのは、戦国武将がたいてい残虐だからである。さすが、殺した人の首を腰にぶらさげて戦場で戦っていた人種である。ちなみに残虐エピソードでは細川忠興が一番好みである。めちゃくちゃヤンデレエピソードが残っている。その上、その愛刀の名は歌仙兼定。手討ちにした家臣が三十六人になった時にその記念に付けられた名前らしい。

 

とりあえず、織田信長の話に戻ろう。彼の父、信秀は尾張守護代織田氏の支族であり、戦国大名となったあとは、今川・斎藤氏と争いを繰り広げていた。両氏とも結構でかいので、織田は強豪に挟まれた弱小大名だった。ただ、その領土は肥沃な濃尾平野。京都にもほど近く、東海・東山両道から畿内に通じる交通路があり、商工業も発達していた。

そんな中織田信長が登場するわけです。まず、1548年に斎藤道三の娘、濃姫帰蝶)との政略結婚。美濃のマムシの娘だけあって、すでにバツ1だったとか。嫁入り前に斎藤道三が信長がうつけだったら初夜の床で刺してこいと短刀を渡したところ、これで刺すのは父上かもしれません、と答えたというエピソードはほんとか知らんが、色々な歴史小説で登場している。

とりあえず、斎藤氏と手を結んだ織田信長は、1560年攻めてきた今川義元をご存じ桶狭間で休憩中に奇襲攻撃、今川義元の首を取ってしまった。今川家は足利氏支流で、今川了俊など有能な鎌倉幕府官僚を多く輩出してきた守護大名出身という名門中の名門であり、まさか田舎の弱小大名に討ち取られるとは…ということで、ここではじめて織田信長に注目が集まった。ちなみに、今川義元が討ち取られたというだけで、今川家自体は江戸時代まで高家として、儀礼典礼を司っていた。

2年後にはこれから一生同盟を結び続けることになる三河の松平元康(後の徳川家康)と同盟を結ぶ。これは戦国時代非常に珍しいことであり、家康が正室築山殿や最も優秀であった長男を殺してまで同盟を守り続けたのは正直気持ち悪い。

64年には妹お市を近江の浅井長政と政略結婚させ、一気に京都へと近づいた。

1567年、義父の斎藤道三が嫡男義龍(斎藤道三が元の主人であった土岐頼芸から略奪した愛妾、深芳野のおそらく父親が頼芸である子)に殺されると、美濃を攻め、斎藤氏の主城、稲葉山城を攻略。岐阜城と改名した。

そしてこのころから「天下布武」印を使い始め、おそらく戦国大名で最も最初に全国統一を視野に入れた人物であるだろう。

1568年、三好三人衆や松永久通に13代将軍の兄義輝をはじめとする家族を暗殺され、再び京に入り、将軍になろうとしていた足利義昭の呼びかけに応じて、彼を奉じて入京し、足利義昭を第15代将軍に据えた。この入京は将軍の地位回復と天皇及び皇室領の保護を名目にしていた。また、この時自治都市堺に矢銭二万貫を要求し、翌年堺が要求をのんだことで、堺は自治都市としての終わりを迎えた。

しかし1570年、織田信長を地方の一大名として見下しがちであった足利義昭と、足利義昭を足台に全国統一をもくろむ織田信長の不和が拡大していく中、信長は越前の朝倉義景を攻めている最中に、朝倉と付き合いの深かった義理の弟、浅井長政に裏切られる。

朝倉・浅井連合軍と姉川で戦い、勝利するが二氏を滅ぼすには至らず。またこの年、本願寺の11世法主顕如本願寺門徒に対信長蜂起を命じ、石山戦争が開始した。

 

信長は仏教勢力を毛嫌いしていた。なぜなら、この時代、最も恐ろしいものは仏教勢力であったからだ。当時、農民ですら完全武装していた戦乱の世。幅広い支持を受けていた一向宗は商工業が盛んであった寺内町や鉄砲の産地、雑賀や根来を押さえ、さらに各地に熱心な信徒を大勢持っていた。彼らの武器は宗教。「進めば極楽、退けば無間地獄」を合言葉に、たとえ劣勢でも、兵糧攻めを受けようとも、最後の一兵となろうとも死に物狂いで向かってくる。一方比叡山延暦寺も、屈強な僧兵を大勢抱え込み、朝廷への太いパイプを生かし、堂々と織田信長に反旗を翻していた。

 

1571年、延暦寺焼き討ち。比叡山にいた人間は、僧侶、女子供関係なく皆殺しにされ、あまりの惨劇に明智光秀がためらいを覚えたほどらしい。一方、豊臣秀吉織田信長の覚えがよくなることを期待して進んで惨殺したとか。とりあえず、これにより比叡山延暦寺門前町、坂本は衰退した。

 

1573年、このころになると足利義昭は堂々と織田信長を倒すよう各地の戦国大名に手紙を送り付けていたが、とうとう織田信長によって追放され、これにより室町幕府は滅亡する。ただ、生存はしていたため、秀吉の時代には大名の扱いを受けていた。

この年に、朝倉義景浅井長政を攻め滅ぼし、浅井長政に嫁いでいた妹、お市と三人の娘(長女はのちの豊臣秀吉の側室、淀殿。二女は京極高次正室、初。三女は徳川秀忠正室、江。)は織田信長に引き取られた。ちなみに、男子は殺されたらしい。

このとき、朝倉義景浅井長政の髑髏で乾杯したという逸話があるが、信ぴょう性は定かではない。

1574年には伊勢長島の一向一揆(美濃斎藤氏の遺臣と結んでいた)を平定。

1575年には、長篠の戦いがあり、家康との連合軍で甲斐の名門武田勝頼を破った。(滅亡は1582年。)

この時、武田の騎馬隊を破るために、信長は鉄砲を導入したようだが、当時の技術的に三段撃ちは難しかったようである。

同年、越前の一向一揆(朝倉氏の滅亡後、越前一国を支配していた)も平定。

 

そして、1576年、琵琶湖のほとりに安土城を築城した。これは最初の本格的天守閣であり、5層7重の大天守閣。標高199メートルの安土山に作られ、付近を見渡すのは容易であっただろう。最上階には金の瓦に金の柱が施され、内部の障壁画は狩野派が手掛けるなど、豪華絢爛な城であったようだ。本能寺の変後の焼失が残念でならない。

この城を作るに際し、信長は近江国内の職人らの棟別銭などの諸税を免除して、国役として作事に従事させた。

 

1577年には秀吉を中国の毛利氏征討に差し向け、1580年には柴田勝家が加賀の一向一揆を制圧。この年、勅命により、顕如と和睦し、本願寺は石山から退去するなど事実上信長の勝利で10年間にもわたった石山戦争が終結

そして1582年。天目山の戦いで、武田勝頼を滅ぼした織田信長であったが、京都の本能寺に滞在中、明智光秀の謀反を受け、自害。本能寺の変である。

長子信忠も二条城で自刃し、ここで織田家の最盛期は終わりを遂げたのだった。

 

ちなみに、織田信長徳川家康と義昭を結節点とした反信長勢力(浅井、朝倉、毛利、武田そして石山本願寺)の一連の争いは元亀・天正の争乱という。

 特に石山本願寺一揆では、伊勢長島、近江、越前、紀伊・雑賀(石山籠城軍の中心となった鉄砲隊)があげられる。

 

最後に織田政権について。

・強力な家臣団の編成

豊かな生産力を背景に、上層名主たちを武士として家臣に組み込んだ

畿内近国の平定

畿内という先進地域を支配下においたことで、商品流通路・貿易・手工業生産などの掌握。幕府に代わる支配体制を構築。寺院などの伝統的秩序の破壊。

・指出検地

貫高基準で軍役などを負担させる。大名・国人を信長から知行を受け、本領安堵された給人とした。

・楽市令(美濃加納、安土山下町)

職人、商人の都市集住を促す。(旧勢力、農村から切り離し、信長のために働く存在へ。)

重要都市(京都、堺、大津、草津)の支配

鉱山直轄(生野銀山、中国地方の鉄)

・仏教弾圧(一向一揆平定、延暦寺焼き討ち)

キリスト教保護(フロイスに布教許可)

キリスト教伝来

当時、ヨーロッパではルターやカルバンによる宗教改革で、プロテスタントが勃興しており、カトリック国はプロテスタントに対抗するため、東南アジアや新大陸で、カトリックの布教を始めていた。

1540年にイグナティウス・デ・ロヨラ(なおスペイン人)が創設した、イエズス会耶蘇会)もその一環であった。ローマ教皇の認可を得、ポルトガルの保護下で、カトリック擁護と東洋方面への布教を目的としており、世界的に布教を行っていた。

 

宣教師とは、キリスト教会が外国伝道に派遣する伝道師、司祭のことである。16世紀ごろ以降に来日した宣教師たちは、ポルトガル語のpadre〈神父〉から伴天連と呼ばれるようになっている。

 

日本の地に最初に足を踏み入れた宣教師、伴天連はかの有名なフランシスコ・ザビエルである。有名すぎる肖像画は、教科書落書きの定番であるが、あれは本人を参考にして描かれたものではなく、江戸時代に創作で描かれたものであり、実際の彼の頭にはきちんと髪があったらしい。頭頂部のみ剃るのはたしかにトンスラと呼ばれ、一部のカトリック宗派で行われていたものの、イエズス会にはその習慣はなかったようだ。

残念すぎる髪型ばかり有名であるが、彼はスペインバスク地方ナバラ王国の王族出身という由緒正しい家柄である。ただバスク地方少数民族はちょうどこのころスペイン王国に飲み込まれていき(現在も独立運動が盛んであるが)滅びゆく王国の最後の末裔であったのだろう。

彼が来日を果たしたのは、1549年。マラッカで知り合った日本人ヤジロウ(鹿児島で殺人を犯し、国外に逃亡していたとされる)の案内で鹿児島に来日した。そこで、領主島津貴久の許可を得て、布教。

当初、その「でうす様」の教えは仏教の一派と勘違いされたのもあり、民衆に浸透する。実際は仏教とは異なるものだと分かったのは、仏教では最も尊いとされていた衆道(要はBL)がキリスト教ではNGだったから。(どういうシチュでそこがバレたのか、地味に気になる)

 

とりあえず、来日したザビエルは鹿児島→山口(大内義隆)へと移動し、また布教。結構うまくいったので、布教許可をもらおうと天皇や将軍がいると聞いた京都に向かったが、そこは応仁の乱で荒廃しており、「汝や知る野辺の都の夕雲雀あがるを見ても落つる涙は」と歌に詠まれるほど。当然、天皇や将軍なんてどこ?という有様なので、また山口に戻り、そこから豊後府内へ。領主大友義鎮を帰依させ、平戸の松浦隆信のもとでも布教。二年余り滞在したあと、インドから中国での布教を目指したが、広州あたりの上川島で熱病に冒され、そのまま死去。二度目の来日は叶わなかった。遺体はインドのゴアに運ばれたのち教会に安置されたが、一部は切り取られ、マカオリスボンなどで保管されている。

 

大内義隆や大友義鎮らが布教を許可したのは、南蛮貿易を行いたいという意図からであったが、他にもキリシタン大名と呼ばれる者は幾人か見られる。

後に長崎を教会領としてイエズス会に寄進し、禁教の原因を作ったとされる大村純忠や、肥前有馬晴信大河ドラマでもおなじみの黒田如水(孝高、官兵衛)や堺の商人から成り上がった小西行長、敬虔なキリスト教徒として知られた高山右近などである。

細川忠興正室、たま夫人(洗礼名ガラシャ明智光秀の娘)がキリシタンであったことが有名だ。

このように並べてみると、有馬晴信(後に収賄事件で切腹)、小西行長関ヶ原合戦後処刑)、高山右近(マニラに追放後病死)、細川ガラシャ石田三成の人質となることを拒否し自害)など、凄惨な目にあっている。これは彼らがキリシタンだったからというだけではないかもしれないが、この時代に生まれなくてよかったかもしれない。

 

ザビエル後も宣教師は数多く来日した。

ポルトガル人のガスパル・ヴィレラは1566年に来日。13代足利義輝に布教許可を受け、機内で伝道。『耶蘇会日本通信』で、堺を東洋のベネチアとして紹介したことで知られている。当時、堺は会合衆と呼ばれる大商人らによる高度な自治が行われており、相当繁栄していたようだ。

 

1563年に来日したのは、ルイス・フロイス。こちらもポルトガル人で、信長の布教許可を得た。秀吉とも親しかったらしく、彼の執筆した日本のキリシタン教会史「日本史」などの著書には、信長や秀吉ら主要大名のことなども詳細に書かれている。伴天連追放令で一度退去するが、その後再来日し、長崎で病死。最後の記述は26聖人の殉教に関するものだったらしい。

 

1570年来日のG.S.オルガンティーノはイタリア人であり、信長の信任を得て、京都に南蛮寺、安土にセミナリオ(中等教育の神学校)を建設。

1579年に来日したA.ヴァリニャーニもイタリア人で、イエズス会の巡察師として来日。セミナリオやコレジオ(宣教師養成学校)を設立し、日本国内の布教区を三つに整理した。また、天正遣欧使節を率いて1582年に長崎を出航、インドのゴアで使節を見送り、彼らの帰国と共に再来日した。また彼の輸入した活版印刷機によって、ローマ字による印刷物が導入された。これらは天草版として知られ、「天草版平家物語」「天草版伊曽保物語」(イソップ物語)「どちりな・きりしたん」「日葡辞書」などが作成された。

天正遣欧使節は1582年から90年に、大村純忠・大友義鎮・有馬晴信の三大名がローマ法王グレゴリオ13世)に使節を派遣したもので、

正使:伊藤マンショ(後に長崎へ追放、大友義鎮の妹の孫)、

   千々石ミゲル(棄教、有馬晴信の従弟で大村純忠の甥)

副使:中浦ジュリアン江戸幕府の禁教令によって穴吊りで処刑)、

   原マルチノマカオに追放)

と日本の禁教令に翻弄される形となった。ちなみに、江戸幕府による穴吊りの処刑を詳しく知りたいなら、遠藤周作の沈黙を読むといい。

 

他にもイエズス会ではB.カゴとL.De.アルメイダ(共に1552年来日)やJ.ロドリゲス(1576年来日)が有名である。

 

一方フランシスコ会(スペイン系)では、1603年来日のルイス・ソテロが有名である。1613年に伊達政宗の派遣した慶長遣欧使節支倉常長)に同行している。

他にもP.バプリチスタやA.ロドリゲスもフランシスコ会の宣教師である。

ドミニコ会からもF.De.モラレスが来日した。

 

これらの宣教師による熱心な布教のおかげか、1582年ごろには信者の数は肥前・肥後・壱岐で11万5000人、豊後で1万人、畿内で2万5000人ほどになっていたという。

南蛮貿易と鉄砲を語る

前回1543年に南蛮人倭寇から鉄砲が伝わった話をした。これにより、南蛮貿易が始まり、主にマカオと九州諸港での貿易が行われた。

ちなみに、1543年に漂着してきたのはポルトガル人である。スペインとの貿易が始まるのは、1584年。平戸への来航をきっかけに、貿易が始まったのだ。

 

南蛮貿易という文字だけを見ると、いかにもヨーロッパとの交易に見える?かもしれないが、実際は中継貿易がほとんどであり、もっとも盛んだったのは日中間で、生糸と銀がやりとりされていたようだ。

主な貿易品を挙げておく。

日本→中国 銀、銅、刀剣、海産物、工芸品、硫黄、漆器

中国→日本 生糸、硝石、絹織物、鉄、薬品、木綿、鉛、毛織物

日本→マニラ 銀、小麦、刀剣、海産物、工芸品、硫黄、漆器

マニラ→日本 生糸、金、皮革、香料

中国→ゴア 生糸、金

ゴア→中国 銀、油

 

ちなみに、ゴア(インド)はポルトガルリスボンと、マニラ(フィリピン)は中南米、スペインとも貿易を行っており、様々な物資が行きかっていたことが分かる。

この時期、日本では銀が大量にとれており、また神谷寿禎による朝鮮からの灰吹法の伝来(銀の精錬技術の向上)などもあり、一時は世界屈指の銀生産量(三分の一)であったが、江戸中期ごろから枯渇がみられてくる。

 

また国内の主な貿易港は以下の通り。

肥前平戸(松浦氏)、肥前長崎(大村氏)、豊後府内(大友氏)

鹿児島(島津氏)、横瀬浦(大村氏)

 

 

次に鉄砲について語ろうと思う。

このころ伝わった鉄砲は前述のとおり、火縄銃である。火薬に硝石(これは日本では採れず輸入に頼っていた)、木炭、硫黄を混合して用いており、射程距離は約100M、一分間に最大四発しか撃てないうえ、雨に弱く、装填に時間がかかる代物ではあった。

よって、騎馬での疾駆で突破可能であったことから、堀や土塁、柵を利用した、城を築城しての戦いが中心となっていく。つまり、土木戦争である。築城技術や、職人・商人の掌握、集中動員が可能かが重視されていく。

ちなみに、種子島から全国の諸大名へと広がっていった火縄銃は、国内生産も盛んにおこなわれ、堺(和泉)、雑賀(同、本願寺門徒)、根来(紀伊)、国友(近江)が主な産地となった。

 

今回はここまで、次回はキリスト教の伝来の予定。

 

 

とりあえず、書いてみた+南蛮貿易の始まり

親愛なる友人、ひとちゃに触発されて、ブログを開設したものの、

はてさて、何を書いたらよいものか。

そして、もうすぐ受験生であるという身の上で呑気にタイピングなんぞやっていて

よいのか、よいわけがあるまい。(反語)

よって、しごく真面目に趣味を語っていこうと思った次第である。

 

まず、今日は近世の日本史について少し語ろうと思う。(唐突)

 

世界ではヨーロッパが近代社会への足掛かりとして東南アジアやアメリカ大陸、アフリカへの積極的な侵略を試みていた。時は15世紀ごろ。

ここでもヨーロッパと一括りにするのではなく、スペイン・ポルトガルとイギリス・オランダの二国に分けて見ていきたい。

比較的日本とこの時期に繋がりのあるこの四国であるが、なぜこのような分け方がなされるのか。簡単である。スペイン・ポルトガルカトリック、イギリス・オランダはプロテスタントなのだ。

同じキリスト教でありながら、正直この二つの間の争いでは、異教徒との戦いや虐殺で殺されたキリスト教徒(ローマ帝国やら十字軍やら)をはるかに上回る数のキリスト教徒の血が流されている。この違いについて語ってもいいところだが、僕の時間はそこまで詳しく語るには短すぎるので、端折る。

とりあえず大事なことだけ言うと、スペイン・ポルトガルカトリックの布教を重視し、貿易と布教が切り離せない関係にあったのに対し、イギリス・オランダは正直布教をそこまで重視していなかったということだ。

今後、レコンキスタ(国土回復運動)を終え一時は太陽の沈まぬ国とまで言わしめたスペイン・ポルトガルは徐々に衰退し、イギリス・オランダが力をのばしていくことになるのだが、それはまたあとの話。

 

話を日本に戻そう。当時、明(中国)は厳しい海禁政策をとっており、朝貢貿易以外は認められていなかった。その朝貢貿易も、細川氏・堺商人が大内氏・博多商人との争い(寧波の乱)に敗北を喫し、その大内氏が下克上の世の中家臣であった陶晴賢に滅ぼされ(陶晴賢自身もその後国人出身の毛利元就に下克上され、あっけなく滅びた。)とりあえず、貿易は途絶えていた。

朝鮮との対馬、宗氏を介した通信符貿易も、様々な制約によって削減され、しまいに現地にいた商人などの反乱(三浦の乱)によって、衰退していた。

 

そうなると、貿易はどうやって行われていたのか。海賊行為である。一般に後期倭寇と呼ばれる彼らによる密貿易が横行し、環シナ海(中国・日本・朝鮮・台湾・琉球・フィリピンなど)の中継貿易が盛んになっていた。ちなみに、後期”倭寇”と呼ばれていたが、日本人がほとんどであった前期と異なりこちらは大半が中国人。後期になるとなんと南蛮人もいたというから驚きである。

ちなみに、スペイン・ポルトガル人のことを主に南蛮人と呼んでいるが、この名前は別に彼らがヨーロッパの南から来たからという訳ではない。東南アジアらへん(南)からやってきた、自分たちと明らかに異なる”蛮人”だったからである。

 

そして、おそらくそうした倭寇であっただろう船(船を所有していたとされる王直は明の密貿易商人であり、倭寇頭目の一人であった)が1543年に種子島に漂着するのである。そう、鉄砲伝来である。島主、種子島時尭南蛮人のもつ見慣れない武器に興味を示し、破格の値段でこれを二挺も買い求めた。伝わったものは、銃口から弾薬を入れる先込め式の火縄銃である。そして彼は家臣にその使用法と製造方法を学ばせた。つまり種子島には鍛冶設備と能力があったのだ。国産一号とされる伝八板金兵衛作の鉄砲は今も現存しているようだ。この時日本にねじがもたらされたとの説話も有名である。

 

こうして南蛮貿易が始まったのだ。

 

ここまでで結構長くなってしまった気がするので、1枚目はこのへんで…

参考文献

山川出版社、全国歴史教育研究協議会編 日本史用語集

同、詳説日本史図録 第六版

同、詳説世界史図録、第二版

吉川弘文館、児玉幸多 日本史年表・地図