キリスト教伝来

当時、ヨーロッパではルターやカルバンによる宗教改革で、プロテスタントが勃興しており、カトリック国はプロテスタントに対抗するため、東南アジアや新大陸で、カトリックの布教を始めていた。

1540年にイグナティウス・デ・ロヨラ(なおスペイン人)が創設した、イエズス会耶蘇会)もその一環であった。ローマ教皇の認可を得、ポルトガルの保護下で、カトリック擁護と東洋方面への布教を目的としており、世界的に布教を行っていた。

 

宣教師とは、キリスト教会が外国伝道に派遣する伝道師、司祭のことである。16世紀ごろ以降に来日した宣教師たちは、ポルトガル語のpadre〈神父〉から伴天連と呼ばれるようになっている。

 

日本の地に最初に足を踏み入れた宣教師、伴天連はかの有名なフランシスコ・ザビエルである。有名すぎる肖像画は、教科書落書きの定番であるが、あれは本人を参考にして描かれたものではなく、江戸時代に創作で描かれたものであり、実際の彼の頭にはきちんと髪があったらしい。頭頂部のみ剃るのはたしかにトンスラと呼ばれ、一部のカトリック宗派で行われていたものの、イエズス会にはその習慣はなかったようだ。

残念すぎる髪型ばかり有名であるが、彼はスペインバスク地方ナバラ王国の王族出身という由緒正しい家柄である。ただバスク地方少数民族はちょうどこのころスペイン王国に飲み込まれていき(現在も独立運動が盛んであるが)滅びゆく王国の最後の末裔であったのだろう。

彼が来日を果たしたのは、1549年。マラッカで知り合った日本人ヤジロウ(鹿児島で殺人を犯し、国外に逃亡していたとされる)の案内で鹿児島に来日した。そこで、領主島津貴久の許可を得て、布教。

当初、その「でうす様」の教えは仏教の一派と勘違いされたのもあり、民衆に浸透する。実際は仏教とは異なるものだと分かったのは、仏教では最も尊いとされていた衆道(要はBL)がキリスト教ではNGだったから。(どういうシチュでそこがバレたのか、地味に気になる)

 

とりあえず、来日したザビエルは鹿児島→山口(大内義隆)へと移動し、また布教。結構うまくいったので、布教許可をもらおうと天皇や将軍がいると聞いた京都に向かったが、そこは応仁の乱で荒廃しており、「汝や知る野辺の都の夕雲雀あがるを見ても落つる涙は」と歌に詠まれるほど。当然、天皇や将軍なんてどこ?という有様なので、また山口に戻り、そこから豊後府内へ。領主大友義鎮を帰依させ、平戸の松浦隆信のもとでも布教。二年余り滞在したあと、インドから中国での布教を目指したが、広州あたりの上川島で熱病に冒され、そのまま死去。二度目の来日は叶わなかった。遺体はインドのゴアに運ばれたのち教会に安置されたが、一部は切り取られ、マカオリスボンなどで保管されている。

 

大内義隆や大友義鎮らが布教を許可したのは、南蛮貿易を行いたいという意図からであったが、他にもキリシタン大名と呼ばれる者は幾人か見られる。

後に長崎を教会領としてイエズス会に寄進し、禁教の原因を作ったとされる大村純忠や、肥前有馬晴信大河ドラマでもおなじみの黒田如水(孝高、官兵衛)や堺の商人から成り上がった小西行長、敬虔なキリスト教徒として知られた高山右近などである。

細川忠興正室、たま夫人(洗礼名ガラシャ明智光秀の娘)がキリシタンであったことが有名だ。

このように並べてみると、有馬晴信(後に収賄事件で切腹)、小西行長関ヶ原合戦後処刑)、高山右近(マニラに追放後病死)、細川ガラシャ石田三成の人質となることを拒否し自害)など、凄惨な目にあっている。これは彼らがキリシタンだったからというだけではないかもしれないが、この時代に生まれなくてよかったかもしれない。

 

ザビエル後も宣教師は数多く来日した。

ポルトガル人のガスパル・ヴィレラは1566年に来日。13代足利義輝に布教許可を受け、機内で伝道。『耶蘇会日本通信』で、堺を東洋のベネチアとして紹介したことで知られている。当時、堺は会合衆と呼ばれる大商人らによる高度な自治が行われており、相当繁栄していたようだ。

 

1563年に来日したのは、ルイス・フロイス。こちらもポルトガル人で、信長の布教許可を得た。秀吉とも親しかったらしく、彼の執筆した日本のキリシタン教会史「日本史」などの著書には、信長や秀吉ら主要大名のことなども詳細に書かれている。伴天連追放令で一度退去するが、その後再来日し、長崎で病死。最後の記述は26聖人の殉教に関するものだったらしい。

 

1570年来日のG.S.オルガンティーノはイタリア人であり、信長の信任を得て、京都に南蛮寺、安土にセミナリオ(中等教育の神学校)を建設。

1579年に来日したA.ヴァリニャーニもイタリア人で、イエズス会の巡察師として来日。セミナリオやコレジオ(宣教師養成学校)を設立し、日本国内の布教区を三つに整理した。また、天正遣欧使節を率いて1582年に長崎を出航、インドのゴアで使節を見送り、彼らの帰国と共に再来日した。また彼の輸入した活版印刷機によって、ローマ字による印刷物が導入された。これらは天草版として知られ、「天草版平家物語」「天草版伊曽保物語」(イソップ物語)「どちりな・きりしたん」「日葡辞書」などが作成された。

天正遣欧使節は1582年から90年に、大村純忠・大友義鎮・有馬晴信の三大名がローマ法王グレゴリオ13世)に使節を派遣したもので、

正使:伊藤マンショ(後に長崎へ追放、大友義鎮の妹の孫)、

   千々石ミゲル(棄教、有馬晴信の従弟で大村純忠の甥)

副使:中浦ジュリアン江戸幕府の禁教令によって穴吊りで処刑)、

   原マルチノマカオに追放)

と日本の禁教令に翻弄される形となった。ちなみに、江戸幕府による穴吊りの処刑を詳しく知りたいなら、遠藤周作の沈黙を読むといい。

 

他にもイエズス会ではB.カゴとL.De.アルメイダ(共に1552年来日)やJ.ロドリゲス(1576年来日)が有名である。

 

一方フランシスコ会(スペイン系)では、1603年来日のルイス・ソテロが有名である。1613年に伊達政宗の派遣した慶長遣欧使節支倉常長)に同行している。

他にもP.バプリチスタやA.ロドリゲスもフランシスコ会の宣教師である。

ドミニコ会からもF.De.モラレスが来日した。

 

これらの宣教師による熱心な布教のおかげか、1582年ごろには信者の数は肥前・肥後・壱岐で11万5000人、豊後で1万人、畿内で2万5000人ほどになっていたという。