とりあえず、書いてみた+南蛮貿易の始まり

親愛なる友人、ひとちゃに触発されて、ブログを開設したものの、

はてさて、何を書いたらよいものか。

そして、もうすぐ受験生であるという身の上で呑気にタイピングなんぞやっていて

よいのか、よいわけがあるまい。(反語)

よって、しごく真面目に趣味を語っていこうと思った次第である。

 

まず、今日は近世の日本史について少し語ろうと思う。(唐突)

 

世界ではヨーロッパが近代社会への足掛かりとして東南アジアやアメリカ大陸、アフリカへの積極的な侵略を試みていた。時は15世紀ごろ。

ここでもヨーロッパと一括りにするのではなく、スペイン・ポルトガルとイギリス・オランダの二国に分けて見ていきたい。

比較的日本とこの時期に繋がりのあるこの四国であるが、なぜこのような分け方がなされるのか。簡単である。スペイン・ポルトガルカトリック、イギリス・オランダはプロテスタントなのだ。

同じキリスト教でありながら、正直この二つの間の争いでは、異教徒との戦いや虐殺で殺されたキリスト教徒(ローマ帝国やら十字軍やら)をはるかに上回る数のキリスト教徒の血が流されている。この違いについて語ってもいいところだが、僕の時間はそこまで詳しく語るには短すぎるので、端折る。

とりあえず大事なことだけ言うと、スペイン・ポルトガルカトリックの布教を重視し、貿易と布教が切り離せない関係にあったのに対し、イギリス・オランダは正直布教をそこまで重視していなかったということだ。

今後、レコンキスタ(国土回復運動)を終え一時は太陽の沈まぬ国とまで言わしめたスペイン・ポルトガルは徐々に衰退し、イギリス・オランダが力をのばしていくことになるのだが、それはまたあとの話。

 

話を日本に戻そう。当時、明(中国)は厳しい海禁政策をとっており、朝貢貿易以外は認められていなかった。その朝貢貿易も、細川氏・堺商人が大内氏・博多商人との争い(寧波の乱)に敗北を喫し、その大内氏が下克上の世の中家臣であった陶晴賢に滅ぼされ(陶晴賢自身もその後国人出身の毛利元就に下克上され、あっけなく滅びた。)とりあえず、貿易は途絶えていた。

朝鮮との対馬、宗氏を介した通信符貿易も、様々な制約によって削減され、しまいに現地にいた商人などの反乱(三浦の乱)によって、衰退していた。

 

そうなると、貿易はどうやって行われていたのか。海賊行為である。一般に後期倭寇と呼ばれる彼らによる密貿易が横行し、環シナ海(中国・日本・朝鮮・台湾・琉球・フィリピンなど)の中継貿易が盛んになっていた。ちなみに、後期”倭寇”と呼ばれていたが、日本人がほとんどであった前期と異なりこちらは大半が中国人。後期になるとなんと南蛮人もいたというから驚きである。

ちなみに、スペイン・ポルトガル人のことを主に南蛮人と呼んでいるが、この名前は別に彼らがヨーロッパの南から来たからという訳ではない。東南アジアらへん(南)からやってきた、自分たちと明らかに異なる”蛮人”だったからである。

 

そして、おそらくそうした倭寇であっただろう船(船を所有していたとされる王直は明の密貿易商人であり、倭寇頭目の一人であった)が1543年に種子島に漂着するのである。そう、鉄砲伝来である。島主、種子島時尭南蛮人のもつ見慣れない武器に興味を示し、破格の値段でこれを二挺も買い求めた。伝わったものは、銃口から弾薬を入れる先込め式の火縄銃である。そして彼は家臣にその使用法と製造方法を学ばせた。つまり種子島には鍛冶設備と能力があったのだ。国産一号とされる伝八板金兵衛作の鉄砲は今も現存しているようだ。この時日本にねじがもたらされたとの説話も有名である。

 

こうして南蛮貿易が始まったのだ。

 

ここまでで結構長くなってしまった気がするので、1枚目はこのへんで…

参考文献

山川出版社、全国歴史教育研究協議会編 日本史用語集

同、詳説日本史図録 第六版

同、詳説世界史図録、第二版

吉川弘文館、児玉幸多 日本史年表・地図